日本名城100選『鉢形城』(2009年3月1日)

~『鉢形城』~
 豊臣秀吉の小田原城攻めと時を同じくして、豊臣連合軍に包囲されていたのが北条氏政の4男北条氏邦の居城”鉢形城”です。前田利家・上杉景勝・本田忠勝・鳥居元忠らに包囲されること27日。開城後、城主の北条氏邦は、前田利家の”あずかり”となり、能登半島は七尾の領地をもらい金沢で亡くなりました。(おそらく領地は七尾でも住処は金沢ということだと思います)
 鉢形城は、北条家四男の城ということもあり、小田原攻めの後は、徹底的に破壊し尽くされ残る建物はありません。しかしながら、小田原城攻めという、有名な戦いの一部であったことから 国指定史跡となっています。
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地図画像
 1476年、家督争いに破れた長尾景春が、長尾家の主君であった上杉顕定(山内上杉家)を裏切り、敵対する古河公方の足利成氏を味方する際に、弥生時代の集落から始まり、時の地元豪族の館として使われてきたこの地に築城したのが始まりとされています。その後、後年川越城(河越城)を築城するなどした”太田道灌”(扇谷上杉家)により攻められるなどを経て、結局主君の上杉顕定のものとなりました。
 その後、『上杉顕定の嫡子”上杉憲政(山内上杉家)”、”上杉朝定”(扇谷上杉家)と古河公方の足利晴氏との連合軍VS北条氏康』の”河越夜戦”に勝利した北条氏康のものとなりました。
 なかなか、わかりにくいところですが、仲の悪かった宗家と分家の上杉家と、これまた上杉家とは因縁の関係にある古河公方の足利家とが協力して、北条家と戦って負けたという感じです。
※古河公方
  幕府が関東地方の分国統治を目指して置いた鎌倉府のボスである鎌倉公方と、関東管領上杉家、そして、上杉家の肩をもつ幕府。本来、公方の仕事を補佐する管領とが、双方殺し合ったり幕府にチクリあったりを繰り返し戦争へと悪化した結果、鎌倉公方が本拠地を現在の茨城県古河市へ移さざるをえなくなった(鎌倉をのっとられた)ことから、古河公方といいます。幕府から攻められても、役職を根拠に支配力を有する古河公方の足利家という存在もわかりにくいですね。
※上杉家
 戦国時代、上杉家は、「山内上杉家」「扇谷上杉氏」他6家もの上杉家があり、宗家は”山内上杉家”で、長尾景虎が山内上杉家の家督を継いだ事により、上杉謙信となります。
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  北側を流れる”荒川(左)”と城内を流れる”深沢川(右)”を堀として利用するなど、天然の要害につくれらました。
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  中央奥のピラミッド状のものが虎口(入り口)→三の曲輪→二の曲輪の順番
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  二の曲輪(左)三の曲輪と二の曲輪をつなぐ木橋(右)。二の曲輪には、鍛冶工房があったと書いてありましたが
三の曲輪に何があったか失念してしまいましたorz。本曲輪は、もちろん、北条氏邦の御殿がありました(写真なし)
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  鉢形城は、その城郭こそ堀や石垣が残るのみですが(復元整備中)、その歴史的な価値の高さから、”鉢形城歴史資料館”がもうけられています。
次回は、同じ日に行きました上杉謙信が落とせなかった『金山城』です。
~おまけ~
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ちょいと、家の用事で福岡にきていまして、ここしばらくは福岡からのUpしています。

2 Responses to 日本名城100選『鉢形城』(2009年3月1日)

  1. POCO says:

    今放送中の「天地人」と同じ時代の出来事かぁ・・・。越後(新潟)と関東との縁(えにし)に思いを馳せられる遺構なのですね。福岡は暖かいですか?遠距離移動ご苦労様です<(_ _)>。

  2. Kuro says:

    コメントありがとうございます。福岡は、やっと今日晴れ間が出てきたという感じです。住んでいる場所がら博多湾は生の松原から差し込む冷えた風が堪えます。明日は3月に定年になる親父と佐賀県「呼子町」でイカを食べてきます。

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